スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

お金だけでは母娘問題は解決しなかった

実母との同居の悩みの相談相手は義母だった。

義母は、わたしに具体的なアドバイスもくれた。

 

食べて出して寝て、何もしないで家に居たって

人間ひとり生きているだけでお金は必要になる。

水道代、ガス代、電気代、食費がかかっている。

お母さんは、払えるだけの年金もあるのだから

少しでも、お母さんが居心地よく暮らすために

お金を出してもらったほうがいい。

家の頭金とは、また別の話。

 

そんなことを義母が言った。

 

母の真意はわからないが、確かに

「ワタシは居候ちゃうで、家の頭金かて払うてる」

と、母は言っていた。

 

わたしは、生活費を入れずに実家暮らしをしてきた

自分のことを思い返して、母娘のパワーバランスが

お金を出すことで調整されるのかと、納得した。

 

わたしが母に、生活費を入れてほしいと話をすると

「アンタはまだ、ワタシから金を取る気か」的な

反応を一時的にされたものの、結局、不機嫌ながら

母は、毎月生活費を渡すようになった。

 

生活費のやりとりによって、母娘関係に変化は見られず

お互いに生じた心の動きを丁寧に観察できなかったけど

 

母にとっては、生活費を払うことで自信を持って同居

していられる安心感が得られたのかもしれないし

わたしにとっては、家計的に助かったことで、母を受け

入れる心の余裕につながっていたかもしれない。

 

でも、でも、それだけでは母娘問題は解決しなかった。

母が得ていたかもしれない安心感も揺らぐ出来事があった。

わたしたち夫婦の、3人目こども計画が、それだ。

 

この出来事がきっかけになって

二世帯同居で気づいた実母の心の闇が浮かび上がって

見捨てられる不安と孤独の恐怖を抱えていた母の姿が

見えてきた。

 

以前にもまして母は

家族の歓心を買うように、お金を使うようになっった。

 

「ガス代、ワタシが払ってあげよか」と

母から申し出てみたり、夫や孫へのプレゼントや

わたしにも、服や靴を買ってくるようになった。

 

また、わたしだけを百貨店のランチに誘い、売り場で

「欲しいもんあったら買うてあげるで」と言うのだ。

子育て中のわたしに、自分の欲しい物なんてない。

 

でも、母の気持ちを拒んで、母の機嫌を損ねるのが

怖かったわたしは、母の申し出や誘いを断ることが

出来ずに、内心モヤモヤしながら受け入れた。

 

わたしは、母の発する裏メッセージがわかっていたし

母は、人とのコミュニケーションの手段として

金品を使うという方法しか使えなかったのだと思う。

 

念願叶って実現した娘との同居生活で

自分の居場所を守るために、母は必死だったのだろう。

 

わたしも、自分の心と家族を守りたくて、母との接触を

減らすために、物理的にも距離を取った。わたしは家に

居る時間が短くなって、家は散らかったままになった。

 

追えば逃げる逃げれば追う、母娘関係

まるで、いたちごっこのようにくりかえされるだけ。

母の情緒不安定も、どんどん加速していった。

 

ある時、夫婦でリビングの模様替えをしていると

母がリビングに降りて来た。わたしたちの近くに来ると

恐ろしく険しい形相で睨みつけてきた。

そして、その表情のまま、無言で、その場に居続けた。

 

ちょっと狂気じみた不穏さを、母に感じるようになった。

 

​−44−

★FBページ★には

ブログの紹介と、空や自然の写真・動画を投稿しています。

★ツイッター★では

ブログ・FBページの投稿のお知らせと日常をつぶやきます。

フォローしてね (^^

遠く離れた誰かともつながれる気がして

去年の12月頃から

カメラで撮りたいものが変わってきました。

 

自分の意識が、花や緑よりも

空に向くようになったんですよね。

 

空はつながっているから、同じ空を見上げると

遠く離れた誰かともつながれる、そんな気がして。

 

ちょっと、少女漫画ちっくかな(笑)。

でも、視点がミクロからマクロになって

自分の思考にも影響あるかもなー。

 

昨年、あべのハルカスに行ったことも大きいかも。

日本一高いビル!!ヘリポートまで上がりました。

とにかく高いところに行きたい、空に近づきたい。

 

最近、ツイッターにも空の写真を投稿しています。

伊藤万紗実のフェイスブックページには

空をメインに撮ったお気に入りの写真を集めています。

 

よかったら観に来てねー!!

 

​−57−

★FBページ★には

ブログの紹介と、空や自然の写真・動画を投稿しています。

★ツイッター★では

ブログ・FBページの投稿のお知らせと日常をつぶやきます。

フォローしてね (^^

もう母と住んでも大丈夫と思ったのは甘かった

23歳で、実家を出ることに成功したわたしは

最初の引っ越しを含め、3回の引っ越しをした。

 

転職もして、新しい連絡先は一応母に知らせたが

わたしから母に電話することも帰省もしなかった。

 

3回目のアパートに住んでいたある日のこと。

かかってきた電話の受話器を取ったとたん

 

「アンタ、ひとっつも電話もかけて来んと!

ワタシがこんなにしんどい思いしてるのに!!」

 

いきなり母が怒鳴りつけてきて、ガチャンと切れた。

別の日に、病院に付き添って欲しいと連絡があった。

 

自分の体調が悪くて、母は不安だったんだろうけど

最初から素直に言えばいいものを。

母は今のわたし(57歳)と同じくらいの年齢だった。

 

その後も、アパートに訪ねて来て一泊していったことが

あった。布団が一組しかなく母娘で背中合わせに寝たが

母の怪獣級のいびきで、まったく一睡もできなかった。

 

仕事やプライベートで色々あったわたしは

30代を前に一人暮らしをやめ、実家に戻ることを決めた。

 

様々な出会いや経験をとおして、わたしも成長したし

もう母と住んでも大丈夫と思ったけど、それは甘かった。

 

わたしは、32歳、独身、乳がんになったことで

自分の人生の課題は病気ではない、母娘関係だと悟った。

乳がん手術後に出会った夫との同棲を機に、再び家を出た。

 

2人で住んでいたアパートに、母が一度来たことがある。

玄関のドアノブに、食べ物の入った袋がかけられていた。

訪ねて来るなんて聞いてない。

 

「お母さん、せっかく遠いところを来てくれはったのに。

まだこの近くにいてはるんちゃうか」

と夫が言うので、仕方なくわたしは母を追った。

 

そして、外出して夫がいなくなった部屋に、母を入れた。

わたしたちが住んでいたのは、大学の学生課で紹介された

格安の、ねずみが天井を走り回るオンボロ木造アパート。

 

母は、眉をひそめて部屋を眺め回し、馬鹿にした様子で

「アンタ、ようこんな汚いとこ住んで。ワタシがお金出して

あげるから、もっとマシなとこに住んだら」と言った。

 

カチンと来たわたしは、母を部屋に入れたことを後悔し

「ここが気に入ってるから」と言い返した。

 

わたしは、結婚の本気スイッチが入った瞬間から

今後一切、母には経済的に頼るまいと心に誓っていた。

結婚する時も、母に何の援助もしてもらわなかった。

 

それなのにそれなのに!!わたしは、家を買う時に

母から家の頭金を受け取ってしまったのだ。バカー!!

 

というものの、どう考えたって、それもこれもあれも

母との同居は必然の苦しみだったとしか思えなかった。

 

​−23−29−

★FBページ★には

ブログの過去記事や、花や緑などの写真・動画を投稿しています。

★ツイッター★では

ブログとFBページの投稿のお知らせと日々の生活をつぶやきます。

フォローしてね (^^

しんどい母から逃れた一人暮らしの解放感

わたしが短大を卒業し、就職して稼ぎだすと

母娘のパワーバランスと恩の着せ方が変化した。

 

見捨てられる不安と孤独の恐怖を抱えていた母

娘の自立を怖れていたのだろう。

 

短大卒業時は漠然と一人暮らししたいと思っていたが

やっと、自分のお金で欲しいものが買えるようになって

貯金もせず、給料はすべて自分の好きなように使った。

 

初めての賞与で車の免許を取り、ローンで車を買った。

母に、恩着せがましく言われることもなくなった。

 

すると、母の恩の着せ方は、微妙に変化していった。

 

ひとり娘のわたしの未来に、取引を仕掛けてきて

次第に、取引金額は大きくなっていった。

 

それ以外に、わたしが家事をしない、何もできない

と言って、母は責め立ててくるようになった。

 

母は、仕事の出勤時間が朝早くて、夕方には帰宅する。

母が夕食を作り終えた頃、わたしが仕事から帰ってきた。

 

働きだしたわたしに、母は怒鳴り散らすようになった。

「アンタ、家のこと何もせんと!何もできひんでどうすんの!

結婚したらどうすんの!親の有難みがわかってるか!」。

 

確かにわたしは、食器洗いや洗濯しかしていない。家事など

大してしていないのは、部活三昧だった高校生の時からだ。

 

「やっぱりわたしって、親に甘えているんやな」と思いつつも

「こんなこと言われ続けるの、やってられんな」と思い始めて

就職2年目から、わたしは一人暮らしするために貯金を始めた。

 

わたしが「一人暮らししようかな」と、母に匂わせると

母は「なんで一人暮らししたいん?」と、聞いてきて

「親の有難みがわかるやろ?」と、わたしは返した。

「お母さんから離れたい」という本心は言えなかった。

 

就職して3年経つ頃に、念願の一人暮らしが実現した。

母に内緒で、物件を探して契約を済ませ、事後報告。

自分の軽自動車に荷物を積み込んで、自力で引っ越した。

 

初めて迎えた一人暮らしの夜、深い眠りについた。

朝、起きた時の、人生で初めて感じる爽快な目覚め。

自分の住んでいる世界が変わったようだった。

 

当時は、夢の新生活が始まる感覚かと思っていたけれど

後に、母娘問題を知って、母の呪縛を自覚して気づいたのは

あの爽快さは、しんどい母から逃れた解放感だったってこと。

 

​−21−24−

★FBページ★には

ブログの過去記事や、花や緑などの写真・動画を投稿しています。

★ツイッター★では

ブログとFBページの投稿のお知らせと日々の生活をつぶやきます。

フォローしてね (^^

母娘のパワーバランスと恩の着せ方が変化

わたしが短大を卒業し、就職して稼ぎだすと

母娘のパワーバランスが崩れ始めた。

 

母は、学生の時のように

「アンタになんぼかかってると思ってんの!」

などとは、わたしに言わなくなった。

 

母の恩の着せ方は、微妙に変化していった。

ひとり娘のわたしの未来に、取引を仕掛けてきて

次第に、取引金額は大きくなっていった。

 

世間で結婚適齢期と言われていた20代には

「結婚して、一緒に住んでくれるんやったら

家の頭金、出したげてもいいで」

と、母は、彼氏もいないわたしに言った。

 

母は、同じことをくり返し言う人

独身期間が長かったわたしは

15年以上、このセリフを聞くことになった。

 

他にもよく母は

「ワタシがしんだら、ワタシの保険金は全部

アンタのもんになるんやから」

と言い、そこで言い終わった。

 

その時のわたしは、母の意図がわからなくて

「で?わたしのもんになるなら、すぐしんで?」

辟易して、わたしはそんなことを思った。

 

社会人になってから、本来、わたしが払うべきお金を

母は「アンタ、払いや」と言いつつ徴収するまではせず

わたしも気がなくて、結局なあなあになり母が払った。

 

後々になって、わたしに収入がない時に

「○○のお金も、ワタシが払ってあげてるんやで」

と、母はわざわざ言ってきた。

 

それで、わたしが「お金、返すわ」と言えば

「いや、かまへんけどな、べつに返さんでもいいけどな」

と、母は言うのだった。

 

「アンタが払いなさい」と言っておきながら

「ワタシが払ってあげている」と言い

「べつに返さなくていい」という矛盾したメッセージ。

 

これがダブルバインドというコミュニケーションだと

わたしは知らなかった。時間がかかってもお金を返す

気概のない自分の甘さやズルさにも向き合わなかった。

 

先ほどの「本来、わたしが払うべきお金」というのは

1つは、母が申請した貸与型奨学金だった。

愚痴を言うならば、知らぬ間に背負わされた借金だ。

 

もう1つは、32歳、独身、乳がんの手術入院費。

仕事を辞め、一人暮らしから実家に戻り、貯金もなく

「出しといてあげる」と母が負担してくれた。

 

転職や引っ越しを重ね、いい年なのに稼ぎや蓄えもなく

恩を着せる母を嫌いながら、その母の世話になっている

自分の不甲斐なさといったらない。

 

そして、32歳、独身、人生最大のピンチをとおして

わたしの人生の課題は病気ではないことに気づいた。

人生の悩みの根本に、母娘関係があることを悟った。

 

「ワタシが出しといたげる」と恩を着せる母の真意は

「だから、ワタシがしぬまで一緒にいてほしい」

ということなのだと、身に染みてわかってきた。

 

​−20D−30D−

★FBページ★には

ブログの過去記事や、花や緑などの写真・動画を投稿しています。

★ツイッター★では

ブログとFBページの投稿のお知らせと日々の生活をつぶやきます。

フォローしてね (^^