「対話」の時に大切なこと

精神科医の斎藤環さんの

インタビュー記事からのメモ

 

 

「個人の尊厳を大切にする社会」

をつくる上で必要なのは

直接的に顔を合わせての「対話」

 

「オープンダイアローグ」

(対話を活用した治療法)

の際に大切にしていること

 

「不確実性」に耐えるということ

 

いつ解決するかわからない

という不確実性をはらんだ悩みと

向き合い続けている人は多い

 

寄り添う側も

いつ状況が好転するのかわからない

という「不確実性」との格闘がある

 

そうした葛藤の先にこそ

「自分を認められる社会」

「個人の尊厳を大切にする社会」

が、つくられるのではないか。

夏休みは

夏休みで、夜更かしが続いてます。

 

夜遅くまでしゃべっている長女と次女。

 

夫が、姉妹の部屋を覗いて

 

「毎日が修学旅行みたいやな」

 

と言ったら

 

次女が嬉しそうに

 

「そうやねん、毎日がエブリデイやねん!」

 

と返してきた。

自分の気持ちに触れるヒント

勉強会でワーク、自分用のメモ。

 

自分の気持ちにゆっくりと触れていく

プロセスをフォーカシングという。

 

創設者、ユージン・ジェンドリン。

(心理療法家・哲学者)

カール・ロジャースと共同研究。

 

研究の中で

気持ちに触れながら探索的に自分のことを話せる人は

カウンセリングが成功しやすいことを見出す。

 

言葉でうまく説明できないけど

確かに感じられる、感じ

→フェルトセンス

 

モヤモヤしていたことに

あるとき気づきを得る

→フェルトシフト

 

フォーカシングのやり方

焦点を自分の内側に向けて観察。

身体の感覚を感じてみる。

→実際のワーク

 

参考書籍

・「ジェンドリン哲学入門」

・「フォーカシングへの誘い」

・「心のメッセージを聴く」

 

 

諸富祥彦先生の書籍

「孤独であるためのレッスン」に

フォーカシングについて記載あり。

貪欲な生き方

長女はマヨネーズが嫌い。

 

ゆで卵に塩をかけて食べている長女に

 

次女が

 

「なんか、損な気がする。塩味だけやと、人生楽しんでない感じ」

 

だって。

「片付けなきゃ」でエネルギーが漏電します

自分が思う以上に

心の負担になっていることってあります。

 

わたしが

「草引きしなきゃ」と思いながら

小さなストレスを長期間ためて

心をどんよりさせていたように

 

「片づけなきゃ」と日々思いながらの

散らかった部屋での生活は、知らぬ間に

心のエネルギーが漏電していきます。

 

なんでか?

 

「片づけなきゃ」の言葉には

「片づけていない」「できていない」という

前提が含まれています。

 

「片づけなきゃ」と

口にするたび、脳内でつぶやくたびに

無意識の、自分へのダメ出しになります。

 

「できていない」ことに意識が向かい

「片づけていない」ことに

罪悪感や責任感を感じやすくなります。

 

「片づけなきゃ」と思う日々が

長期間続くと、気分は上がらず

幸せ感が不足していくので

なんとなく元気がなくなっていきます。

 

だけど、ちょっとずつでも

片付け始めると、行動し始めると

心のエネルギーは充電されていくんです。

 

なんでか?

 

自己肯定感を感じるから。

 

小さなひきだし一段でも片づければ

完璧に片付いていなくても

片付けが終わっていなくても

自己肯定感はあがります。

 

「片づけなきゃ」→「片付け始めている」

「できていない」→「やり始めている」

となって、前提が動き始めるから。

 

それを少しずつ積み重ねていくと

どんどん自己肯定感があがっていきます。

 

現在進行形で考えるのがポイント。

小さくていいから行動を起こすこと。

 

夏休みの宿題みたいですね。

「やらなきゃ」と思うばっかりで

どんどん日がたっていくけれど

まずは、1ページやり始めると

進み始める、、、みたいな感じ?

自分を縛るものは外す

人生において

手枷足枷になるものが何かしらある。

 

枷(かせ)であると同時にそれは

自分の大切なものだったりする。

 

たとえば、家族。

 

人生で、自分の進む道を誤らないよう

いい意味でプレーキの働きもしてくれる。

 

自分を縛るもの(枷)は

必要最小限にしたい。

 

しょうもない手枷足枷は

どんどん外していこう。

持ち時間の質をあげたい

飛び上がって喜ぶようなことではないけれど

わたしが喜んでいることを、心の内側から

じわじわじわじわと感じている。

 

ずーっと気になっていた荒れた裏庭が

7月初旬にすっかりきれいになったからだ。

 

我が家の裏庭は風通りがよく

樹木や雑草の種が風で運ばれてくる。

 

あわてて草引きをするのだけれど

草を抜くスピードより

草が生えるスピードの方が速くて

おっつかない。

 

わたしが仕事を始めてから

普段行かない裏庭の雑草は

伸び放題でどんどん茂っていった。

 

ため池と空き地に隣接した裏庭を

さえぎる建物は何もない。

家の外からよく見える位置にあり

見るともなし我が家の裏庭が目に入る。

 

外出して、我が家に帰る時

わたしの心はどんよりする。

 

池越しに、裏庭を目にするたびに

「あーあ、草ぼうぼうだ。。。」

と、心の中でつぶやいて

「早く草引きしないと。。。」

小さく心が揺さぶられる。

 

この小さなストレスを2年以上蓄積し

わたしの心の庭にも雑草が・・・。

 

「やらなきゃ」と思いながら

やれない自分に罪悪感を感じて

誰かに頼まれたわけでもないのに

「ちゃんとやらないと」と責任を感じる。

 

自分でできることは

「自分でやらなければならない」という

価値観、信念、思い込み、ビリーフ。

そんなものに縛られているのか。

 

家族からも誰からも責められていないのに

いつも、どこかに

草引きをしていない自分を責めている

わたしがいた。

 

だけどもう

 

腰高の柵の2倍くらい高く伸びた雑草たち。

手では引けない太い幹に育った針のある樹木。

 

わたしの手には負えない。

 

やっと、思った。

 

「自分でできないことは他人に頼もう」

 

自分でできそうなことにお金を使うのは

庶民的にためらいを感じるけれど

有料サービスで得る費用対効果は大きい。

 

スッキリするのは裏庭だけじゃない。

心の気がかりも一掃される。

この先、思い悩む時間が大幅に減る。

 

わたしは、お金を払ってでも

この効果が、今すぐ欲しい!

 

「お金を払って他人に頼む」と決め

ふっきれた途端、依頼先に

シルバー人材センターを思いつき

問い合わせの電話をかけた。


行動を起こすと

どんどん心が軽くなっていった。

 

期待以上にきれいになった裏庭を見ては

水脈に水が行きわたるように

心にしみわたるような喜びを感じた。

 

荒れた裏庭に、ずいぶんと

心のエネルギーを消耗していたんだなあ。

 

裏庭から解放された分だけ

心に余裕、余力ができた感じ。

 

気づかないまま、小さなことが

自分が思っている以上に

心の負担になっていることがあるから

 

自分がどうしたいか感じること。

自分の許容範囲や限界を知ること。

きっかけやタイミングを掴むこと。

リセットする勇気を持つこと。

お金で解決する選択肢もあること。

 

ひとりだけで考えないようにしよう。

 

今、生きている、この時を

全力で楽しめるように

不要な気がかりや心配は

どんどん手放していきたい。

 

人間、いつ死ぬかわからないから

自分の持ち時間の質を上げたい。

お役御免

こないだ

ブチっと音がしたかと思うと

ブレーカーが落ちて停電。

 

食洗器が何だか焦げ臭い。

漏電していたみたい。

 

相反する気持ちを抱えながら

使ってきた食洗器が

 

いよいよ、

とうとう、

ようやく、

やっと、

ついに、

 

壊れました。

 

この家に住み始めて使い始めた

食洗器は、次女が生まれてから

座敷婆(同居していたわたしの実母)が

買ってくれたものでした。

 

何度か修理をしながら使い続けて12年。

なくてはならない生活必需品。

 

なのに、相反する気持ち、とは

 

座敷婆の裏メッセージが込められた

食洗器を使うたびに、わたしは

座敷婆の急所をつくやりとりを思いだして

 

無意識に、嫌な気持ちになっていたのです。

 

なので、以前、断捨離を始めた時には

ボーダーTシャツを着ない理由を書いたように

座敷婆を連想するものを家からなくそうと

食洗器も捨てたい衝動にかられました。

 

けど、自分の気持ちを最優先できない

現実生活のやるせなさって

こういうことなのかなあ。

 

食洗器のありがたさ半端ない!

 

食洗器がもたらす、わたしの人生への

嫌悪度と貢献度を、秤にかけた結果

貢献度が大きくて手放せなかったのです。

 

だけどもう12年。

今年は座敷婆の7回忌。

 

お役御免の時を迎えたように思います。

 

食洗器は壊れるまで献身的に働きました。

お札のように貼りついていた

裏メッセージの意味もなくなりました。

 

電化製品も精神も取り替えの時期。

 

次は、呪いのかけられていない食洗器と

一から思い出を刻んでいきましょう。

生きることは、すなわち「失う」こと。

しばらく前に読んだ本の

心に残った文章を書き留めた

メモが出てきました。

 

何の本か忘れましたが

心が動いた記録として

残しておこうっと。

 


最後はみな命を失って、

この地上から消え去るのだ。

 

我々は失うことが悲しくつらいがゆえに、

失うものの多さに目を閉ざしがちだが、

意識して失うものを見つめていくことも

大事だと思う。

 

「得る練習」の技術ばかり磨くことをせず、

「失う練習」を心のなかでやっていく。

 

「失う練習」はきっと、より深く命を生き、

よりよき生き方へと導いてくれるに違いない。

 

生きることは、すなわち「失う」こと。

 

そんな自然なとらえ方が大切なんだと思う。


 

不安の正体

夫がサラリーマンを辞めます。

いよいよその日が来たかと

淡々と受けとめたわたしですが

 

微妙に心の重苦しさを感じました。

 

この心の重苦しさは

この微妙な不安感は

 

これから教育費がかかる時期を迎えるのに

貯金ができるだけの収入が得られるだろうか

という経済的な不安が大きいのか?

 

それとも

 

仕事を辞めて夫は家にいるらしいから

定年退職後のような生活になるのではないか

という変化への不安が強いのか?

 

などと

不安の正体を突きとめようと

自問しますがスッキリしません。

 

「実はなあ、夫が仕事を辞めんねん」

 

職場で同僚に

あーだこーだと話をしているうちに

その不安を一掃する瞬間がありました。

 

家庭は生活の基盤。

安定して生きていくための基盤です。

 

その、基盤を、自分の安定を

人に支えてもらおうとしている

自分がいるのに気づいたのです。

 

不安の正体は、依存心。

 

夫が仕事を辞めたら

 

「これからどうするんだろう」

「これからどうなるんだろう」

 

と、漠然とした不安を感じました。

わずかながらも確かに感じました。

 

この不安は

 

人に期待をすることで

人をあてにすることで

 

生まれている。

 

この不安は

 

自分の人生を

人の手にゆだねていることで

 

生まれている。

 

「嫌だな、こーゆーの」

 

わたしは生きていくために

家族の生活の基盤を守るために

 

わたしのやることをやる。

わたしのやれることをやる。

 

そう決めたら

スコンと何か憑き物が落ちたみたいに

気持ちがラクになった。

 

わたしが、決めただけで。