限りなく自分に近づいてきていると感じた瞬間

声を出すことは、本来の自分とつながること。

言葉を出すことは、自分の気持ちとつながること。

 

このことを

わたし自身、体験的に感じてきました。

 

また

限りなく自分に近づいてきている

と感じた瞬間もありました。

 

ある朝のこと。

煮魚をお皿に入れラップをかけ終わったら

吊戸棚のラックに戻したラップが突然落ちてきて

箱の角が煮魚を直撃!

 

硬いラップの箱が直角に刺さって

身崩れした煮魚を目の前にして

 

わたしは、淡々と

「あーあ、無残・・・」

と、心の中だけで、つぶやいたそのコンマ1秒後

「んがあーーー!!」

と吠えた。

(本来の自分は野獣やな(^-^;)

 

わたしは、淡々と表情にも言葉にも出さず

反応そのものを表現しないで

そのままそれでおしまいにしようとしてた。

 

長い間、人生の多くの場面で、そうやって

わたしは生きてきたのだけど

 

たった一切れのサバを目の前にして

実は、わたしの心は大きく動いていて

 

上からラップの箱が落ちてきたことに驚き

わざわざ朝から作った煮魚の無残な姿に

ショックを受けたんだ。

 

ハプニングに対する瞬間的な反応には

コンマ1秒の時差があったけど

吠えることで、驚きや衝撃、動揺した気持ちを

表現したんだって気づいたら

感情を解放できるようになってきてるんだな

って思った。

 

そばにいた長女が

「最近、ママ、よく叫ぶよね?」

と言った。

 

あ、やっぱり(笑)

 

この出来事をきっかけに

思ったことは、なるべくその瞬間に言葉にする

努力を、意識を、するようになりました。

そのためにツイッターも使い始めました。

 

ささいなことに、心が大きく動くことがある。

自分が、心が、感じていることを大切にしょう。

 

ささいな気持ちもなおざりにしない。

心が動いて感じたことは

言葉にして、口から出そう。

 

気持ちを溜め込まないようにしよう。

独り言だっていいから

言葉にして、口から出そう。

 

いつも、わたしがわたしでいるために。

喉まで出かかっても、けして言葉にはならない時

とっさの時に大声出せる?って

わたしの20代半ばの、怖かった体験を

書いていたら、他にも

声が出せなかったことがあったのを

思い出した。

 

障害者施設で働いて、1、2年目の頃です。

年度末に総括会議というのがありました。

年度始めに立てた方針や目標に照らして

1年間の活動を振り返る会議です。

 

会議の最後に、職員がひとりずつ

1年間の感想を言う時間があって

わたしの番になったんだけど

何もしゃべれなかった。

 

会議といっても

毎日一緒に仕事をしている人ばかりで

堅苦しい場でもないのに。

 

自分の感じたことを話そうとしては

生唾を飲むばかりで、声にならなくて。

結局ひとことも発せないまま。

 

その後、どうやって会議が終わったのか?

その出来事を、どう自己分析したのか?

はっきり憶えてない。

 

恋のセンサーの反応点


そもそも自分が感じていることに気付かない。

自分がなにか感じているけれど、それがなにかわからない。

感じたなにかがわかっても言葉にすることができない。

感じたことを言葉にできても口から出せない。


と、書いてます。

 

20歳前後のわたしは

自分のことが嫌で嫌でたまらなくて

今の自分は本当の自分じゃないと否定し続けて

ありのままの自分にオッケーが出せなくて

自分の気持ちを素直に感じることができなかった。

 

どうしようもなく心が傷ついた時も

「これくらい平気、平気」

と、自分の気持ちをごまかしてきた。

 

声を出そうとして出せない時って

 

自分に気づかれることもなく

心の奥底に沈めてきた気持ちが

溜まりに溜まって口からあふれでそうになっても

気持ちを感じることを許さない自分が

喉を絞めつけ、表現させまいとする。

素直に感じたことが喉まで出かかっても

けして言葉にはならない。

 

そんな感覚でした。

 

そんな感覚は、今思うと

体からのメッセージ、だったんだな。

 

「もう、限界だよ」って。

助けを呼ぶための特別な叫び声

長女が小学生の時、わたしが参加したのは

保護者向けの、CAPという

こどものための暴力防止プログラム。

 

こどものためにも、大人のためにも

自分の心と体を守るための訓練や教育が

必要だと思いました。

 

母親としての学びだけでなく

自尊感情の低かったわたしが

 

自分は大切な存在であること

自分の持っている力を信じること

 

を学んだ講座でした。

 

ワークショップ形式の講座は

 

「1人で遊んではいけません」

「大人に相談しなさい」

などの、禁止や命令、指示で終わらない。

 

被害を予防する知識やスキルを教えるだけでなく

 

こどもたちが

自分自身が大切な存在であることを知って

こどもたちが

大切な自分の心と体を守る力を発揮できるよう

 

ロールプレイをとおして実践方法を学ぶのです。

 

そして、そのプログラムの中に

〜助けを呼ぶための特別な叫び声〜

というのがあったのですよ。

 

「キャー」という声は

こどもが遊んでいる時にも出していて

見過ごされてしまうことがあるので

「ウォー」という特別な叫び声を出そう

 

というのを聞いて

わたしの20代半ばの、怖かった体験

(とっさの時に大声出せる?)

を、思い出しました。

 

叫べばいいとわかっていても、声が出ない。

必死で絞り出した「野獣の雄叫び」は

まさに「特別な叫び声」でした。

 

CAPをとおして

怖かった体験を振り返ったとき

自分に内在する力で、大切な自分を守れた

のだと理解しました。

 

「ぬ”う”お”お”お”お”!」と

肚の、底の、底から、声を出したとき

自分の中心に、本来の自分に、ガッチリ

つながったような感覚がありました。

 

自分の心と体を守るために

 

特別な叫び声について知っておく。

実際に叫び声を出してみる。

普段から、地声を使うようにする。

 

そして

 

自分の感情や気持ちを素直に言葉にできる

ことが、とてもとても大切だと思います。

 

分かりやすいサイトを見つけましたので

よければご覧になってください。

https://www.nhk.or.jp/toyama/kodomo_pj/serise/kpj_20200219.html

とっさの時に大声出せる?

身の危険や恐怖を感じた時に

大声で助けを求めたり、走って逃げたり

とっさの時に、できますか?

 

そうすればいいと知っていても

みんながみんな、すぐに

できるわけじゃないと思うんです。

 

普段からトレーニングが必要だと思った

わたしの20代半ばの、怖かった体験を

シェアさせてください。

 

仕事を終えた、自宅への帰り道でのこと。

傘を差して歩いていたわたしは、何者かに

無言で、羽交い絞めにされたんです。

 

突然のことに、自分の身に起きていることが

理解できず、体は硬直して思考も固まりました。

 

直立のまま、凍りついたように動けない時間が

とんでもなく長く感じられるなか

ドラマで観た同じようなシーンが脳内に浮かび

「こういう時は大声を出さないと!」

と、思うものの、全く声が出せないのです。

 

それでもとにかく

叫ぼうとして

必死になって

やっとのことで

肚の、底の、底から

声を絞り出したんです。

 

そしたら

「ぬ”う”お”お””お”お”!」

って

本人のわたしも聞いたことのない

地を這うような

すんげえ、声が出た。

 

もうそれは、野獣の雄叫び(笑)。

 

背後にいた男は、腕をほどき

わたしの前を駆け抜け、一目散に逃げてった。

 

身体がバラけそうな、全力疾走💨の後ろ姿。

その慌てっぷりは、まるで漫画のひとコマ。

 

「あ”あ”ー、助かったー」

逃げた男も同じこと思ってたやろな(~_~;)

 

大事に至らずにすんだから

この話、ついネタにしてしまうのですが

わたしが言いたいのは

 

大声で助けを呼べばいいとわかっていても

声が出せるわけではない。

けど、声で助かった、ってこと。

 

後に、母親となったわたしは

さまざまな暴力からこどもを守るための

勉強会に参加する機会がありました。

 

その勉強会で、防災訓練や避難訓練のように

自分を守るための訓練が必要だと思いました。

類は友を呼ぶってホントだな

先日

高2長女の高校の友達5人が

我が家に遊びに来た。

 

高校生は、勉強に部活に忙しいから

みんなの予定を合わせるのが難しく

1ヶ月前からの企画がやっと実現した。

 

わたしが帰宅してリビングに入ると

娘が6人いるのだけど、違和感がない。

妙にうちの空間になじんでいる感。

 

やっぱり、雰囲気の似た子と

仲良くなるんですね。

 

でも、似ているのは

雰囲気、だけじゃなかったよ。

お笑いのツボ、もね。

 

長女の友達のオヤジギャクを

お笑いのひきだしに入れとく。

 

「入れてこ、捨ててこ」

「座敷婆のひきだし」を作りました!

皆さま、いつもブログをお読みいただき

ありがとうございます。

 

投稿記事をカテゴリー分けする

ひきだしを増やしたお知らせです。

 

「座敷婆のひきだし」を作りました。

座敷婆とは、わたしの実母のことです。

 

実母にまつわる話を書いた記事は

「座敷婆のひきだし」に入れます。

 

今まで「わたしのひきだし」に入っていた

過去の記事も、ちょっとずつ移動させます。

 

ブログを始めて4年目を迎えて

家庭や仕事、生活や人生に変化があり

書きたい内容も増えてきて

母について書く頻度が減ってきています。

 

書いているわたしも

母について、どこまで、何を書いたか

わからんようになってきたんです(-_-;)

 

もう母のことで悩んでいることはなくて

わたしの中では、完了しているので

今さら書かなくてもいいかなー、という

感じになっているんですが。

 

でも、途中でやめるのも何か気持ち悪くて

わたしの心から出し切ってしまいたいというか

書き終えたいという気持ちもあって。

 

近い将来

「母のことは、これでおしまい!」

と、はっきりすっきりできるように

「わたしのひきだし」とは別に

分けておくことにしました。

 

ブログの変化は

わたしの変化、ってとこでしょうか。

 

母娘関係に関心があって読んでらっしゃる方は

「座敷婆のひきだし」だけ開ければいいので

探す手間が省けるかなー。

 

引き続き、どうぞよろしくお願いします。

小豆バーが食べたくなる季節

毎年、8月が終わりに近づくと

Iさんを思い出します。

 

この人がいなかったら、わたし

どうなっていたのだろう。

 

わたしたち母娘に

積極的に関わってくれて

具体的な行動で

わたしを助けてくれた恩人。

 

母にとっても

引っ越し先で初めてできた友達で

心を許せる特別な存在だったと思う。

 

 

10年前の夏

認知症の症状が出始めた母の

終の棲家を探すため

わたしは奔走していました。

 

母にこの話をしようと思うと

見捨てられ不安の強い母の反応が

手に取るように想像がついて

話す前からしんどくなった。

 

そもそも

昔っから対話が成立しない人なうえに

同居後は、気に入らないことがあれば

すぐ「田舎に帰る」と言う母。

 

わたし1人では

母を連れ出すのは困難でしたが

サービス付き高齢者住宅の見学を嫌がる母を

「私も見たいもん」

と、気気鵑上手に誘ってくれて

3人で見学に行くことになりました。

 

案の定、見学先では責任者の方を前にして

気に入らないところを並べ立て、毒づき

「ここは施設や。施設には絶対入らへんっ」

頑な母に、苛立つ娘。

 

見学の帰り、車の中で口喧嘩を始める母娘に

「なんでこんなことになるの、2人ともやめて」

いたたまれなくなったIさんが

「ちょっと、車停めて」

と言って、わたしと母を置いて行った。

 

戻ってきたIさんが

「まあまあ、2人とも、これでも食べな」

と、差し出したのが、〇村屋の小豆バー。

 

スーパーの駐車場に停めた車の中で

3人で食べる小豆バー。

 

Iさんの優しさが心にしみて。。。

 

小豆バーを見るとIさんを想い

Iさんを想うと小豆バーが浮かびます。

 

86歳のIさんが亡くなったのは

その夏の終わりでした。

 

わたしの人生史上、一番泣いた日でした。

言葉のイメージにとらわれてない?

自分を認めることができなかった原因に

自分の、言葉の意味の捉え方に偏りがあった

と、気づいたのも、この頃。

       ↓

自己嫌悪は傲慢って知ってた?

 

「認める」という言葉に、あなたは

どんなイメージを持っていますか?

 

「認める」を国語辞典で引くと

 

仝て知る。見さだめる。

見て許可する。

うけいれる。承認する。

す發評価する。

 

4つの意味が載っています。

 

わたしは、この4つのうち

す發評価する。の意味だけで

「認める」を捉えていました。

 

能力を認められる、世間に認められる、とか

プラスの評価をするイメージが浮かぶので

 

出来ない自分を認める(=高く評価する)のに

無理を感じてしまうのでした。

 

だけど、ぐ奮阿琉嫐で

「認める」を捉えなおしてみると

 

出来ない自分を許し、ダメな自分を受け入れる。

自分のありのままを見ることが

できるようになっていきました。

 

同じ言葉を使っていても、その言葉には

その人だけが持つ意味やイメージが存在します。

 

自分が苦しくなる言葉があったら

 

その言葉にどんなイメージがあるのか

自分にとっての特別な意味はないか

 

考えてみるといいかもしれませんね。

自己嫌悪は傲慢って知ってた?

こどもの時から悩んできた自己嫌悪感。

わたしが自己嫌悪から抜け出せたきっかけは

 

「自己嫌悪こそ傲慢である」という言葉でした。

 

ハードル、上げ過ぎてない? の記事で

 

自分の短所や失敗に対して注意や指摘を受けると

自分のすべてを否定されたようにしか思えなくて

 

必要以上に、傷ついたり自分を責めたり、逆に

開き直るような傲慢な態度をとったりして

自己嫌悪に陥るというパターン。

 

と書きました。

 

50代を前に、自分の育て直しを始め

自己嫌悪感や自己否定感を克服する

ヒントを探していた頃のメモが

2015年の手帳に残ってました。

 

引用元がわからないのですが

自分の思考を改める強い刺激になったので

シェアします。

 


「自己嫌悪は傲慢である」

 

自己嫌悪は一見反省しているようで

事実を認めていないのと同じだから

改善が起きてないのである。

 

同じ失敗を繰り返さないためにも

まずは事実(自分)を受け入れ

前向きに取り組むことが大事である。

 

自分を責める時→

「こうするべきだったのに、

なぜ自分はできなかったのだろうか」

 

一見反省して謙虚に見えますが、

自分が出来なかったことを受け入れない

姿勢こそが傲慢な思考である。


 

ガビーン!! 当時、かなりの衝撃でした。

反省して自己嫌悪していると思ってたのに

謙虚の真逆?!だったなんて。。。

 

けど、出来ない自分を認めるの、怖かった。

自分がなくなってしまいそうで、怖かった。